一念の偏りを直ちに正しい方向に導かなければ、一歩一歩全てが間違ったものになります。
ちょっとした悪念があってもならない
九月十五日、医療志業各病院の院長及び慈済人医会の団体との懇談で、上人は、仏教には五道や六道という言い方があることに触れました。五道とは天道、人道、地獄道、餓鬼道、畜生道で、六道は阿修羅道を加えたものです。阿修羅は遍く五道に存在し、例え天道で天の福を享受していても、気性の激しい者は争い事を起こします。ましてや人間(じんかん)には奪い合いや喧嘩、戦争が常に起きています。「癇癪を起こす人や他人を罵る人は、心が邪悪だからではなく、単に気性が激しいだけなのです。しかし、癇癪は人から避けられ、少しの意見の食い違いを大きな争いにしてしまうので、世の中は平和で仲良くなることができないのです」。
また、健康な時は裕福な生活をしていても、お金を出し惜しむ人がいますが、一旦病気になると、大願をかけて善行したいと思うようになるのです。しかし、そういう時は既に健康状態が悪化していて、願望を果たせなくなっているのです。ですから、人間(じんかん)で教育する必要があるのです。一人ひとりが時間を無駄にせず、職能を良能に変えるよう教育するのです。例えば、一部の医者は、患者を診察して病気を治す職能を身につけて奉仕する気持ちがあっても、まだ利益への執着心があります。それに比べ発心して貧しい患者を助けようとする医者は、機会を逃さず、自腹を切ってでも山奥や辺境、または国境を跨いで施療に出かけます。これは職能を良能に昇格したことだと言えます。
医療人員が生命に直面する時、自分の生命をかけて患者の生命を救っており、志を尽くし、専念して使命を担い、苦労を厭いません。その人助けしようとする心は真心から来ており、嘘偽りのないものです。それが絶えず保たれ、次から次へと繋がれるなら、時間と共に善と福が蓄積されます。
「ブッダは私たちに『諸惡莫作,眾善奉行(諸悪を為さず、善を保つ)』よう教えています。他人が不利益になるような考えや自分の利益だけを考えて人のことを顧みないのは、既に悪の方向に向かっていることであり、絶対にこのような考えがあってはなりません。ブッダは私たちに、人や世を救うよう教えています。心の無明は病と同じで、それ故に人を救わなければならないのです。無明による偏った観念を正しく導き、善良な本性に回帰させるのです」。上人は、「一念の偏りを直ちに修正しなければ、一歩一歩全てが誤ったものになるため、修行は心を修めることに重点を置いているのです。一念の心が正しければ、道は正しくなります」と言いました。
ブッダの故郷への報いに感謝
九月十七日、マレーシアの郭済縁(グオ・ジーユエン)師兄と陳吉民(チェン・ジーミン)医師たちが、ネパールへの旅について報告しました。慈済ボランティアの精神理念は釈迦牟尼佛の教えから来たもので、ブッダは人間(じんかん)の苦しみをとても深く体得し、衆生を苦しみから抜け出させたいと思ったのです。ブッダは修行して悟りを開いた後、この世の衆生は皆、仏性を持っており、ただそれが長い間、無明に覆われているだけであり、実は誰もが悟りを開いて苦難から逃れることができるのだ、と言いました。幸福な人々が縁によって集まり、仏法を聞いて、菩薩行を修め、慈済世界を成就させているのです。今は感謝と恩に報いる気持ちを持って、ブッダの故郷で慈善、医療、教育などで支援しています。
また上人が、ネパールに慈済の連絡所を正式に設立することに触れ、現地でボランティアを募ってこそ、法脈と宗門を根付かせることができ、それが衆生を庇護する大木に育て上げなければならない、と言いました。大木に成長するには数百、数千年の歳月が必要であるばかりでなく、絶えず下に伸びる木の根があって初めて、微動だにせず、そそり立つのです。慈済がそれぞれの国や地域で志業を推し広める時、一番大事なのは現地で志を持った人たちが投入し、その志業をしっかり根付かせることにあります。それ故に、絶えず現地で人々に声をかけ、物語を語る方法で、大衆に「竹筒歳月」から慈済の由来を話し、彼らに、生活に影響がない程度で善行することを励ますよう促しました。
仏法を受け入れて発揮する能力という意味の「根機」は、衆生それぞれですから、因縁や背景が異なれば、仏法に対する理解も異なり、受け止め方も違ってきます。しかし、修行する方向は同じで、常に「諸惡莫作,眾善奉行」を心がけなければなりません。上人は、「仏法は至る所に存在し、それを聞いて実践すれば、一言、二言だけであっても、一生を左右する智慧のある言葉なのです。しかし、法を伝承して人の心に入り、善の因を植え付けるには、善の縁がなければなりません。縁のある人が口にする良い道理ならば、誰もが受け入れられるのです。ですから、私はとても幸せだと思っています。こんなに多くの福縁と繋がり、皆が心して愛でもって黙々と奉仕しているのです。私たちはこの縁をもっと深く耕し、ネパールのために立派な菩薩の道を切り開かなければなりません」と言いました。
(慈済月刊六七二期より)