脱痩せ型変身記

鐘発琴|中華系インドネシア人新住民。46歳、菜食歴7年

か細い彼女は、どう食べても太らない。菜食することを「遠くで暮らす」家族に認めてもらうだけでなく、「目の前にいる」夫の気持ちにも心を配らなければならない。そして、彼女は野菜と果物について栄養学を専攻して学び、体質を改善しただけでなく、料理の腕前も上げた。

率直に言うと、私は炊事ができない人間でした。以前は、火が通ってさえいれば、味がどのようなものであっても、口に入れることができれば良いと思っていました」。鐘発琴 (ヂョン・ファチン)さんは、笑いながら過去の自分について語ってくれた。

インドネシアから台湾に嫁いで来た彼女は、幼い頃から肉食に慣れていて、かつて唯一食べることができた野菜料理は、シュリンプペーストの空心菜炒めだった。七年前の九月、彼女を可愛がっていたお義母さんが亡くなった。家族は葬儀が円満に終わるまで、お義母さんに功徳を回向するために、全員一致で菜食することにした。当時、彼女は新住民成長クラスの一員として、一歩踏み込んで慈済を理解し、ボランティア養成講座を受講し始めていたので、それから今日まで、自然と菜食を続けて来た。

「菜食するのはとても簡単です。肉や魚さえ食べなければ良いのです」。彼女からすれば肉食から菜食に変わることは簡単だが、問題は家族であった。

故郷インドネシアの両親は、野菜しか食べないなど、体に必要な栄養が全く足りなくなると考え、猛反対した。家族は盲目的に心配をしていたのではない。というのは、鐘さんは子供の頃、病気のために見捨てられた子であり、育ての親が心を尽くして食事を与えて、やっと一命をとりとめたのである。彼女は同年齢の子供より虚弱で、たとえ無事に大人に成長しても、体重はわずか四十キロほどしかなかった。

家族は疑問視していたが、彼女はめげずに、一心にレシピを研究し、本を読んで、どの野菜や果物が肉類の栄養に取って代われるかを調べた。そのプロセスを通じて、食事は空腹を満たすだけでなく、体はより栄養バランスを必要とし、そして毎食十分なタンパク質の摂取が不可欠だということを一層理解した。

痩身の鐘さんは、実はとても「大食い」だ。食べるとすぐにお腹が空いてしまい、食事と食事の間にも絶えず何かを食べ続けていた。彼女は食材の組み合わせに専念したことで、新しい料理のスキルを習得した。四、五年後には、体質不良の問題を解決し、一年ずつ体重が増加した。二〇二〇年には、女性が献血できる最低目安の体重四十五キロに達し、一年に二度安定して献血ができるまでになった。献血行為により、家族は次第に菜食への反感も薄れ、菜食が発琴さんの健康を支えてくれていると心から感じ取った。

鐘発琴さん(右から3人目)は、頼秋燕さん(左から2人目)、新住民の友人林育亘さん(後列中央)と、自宅で菜食の経験をシェアしたり、一緒に菜食を作ったりしている。

お腹を満たすだけでなく、
意識的に菜食する

台湾に来て二十年余りになる鐘発琴さんだが、実家の味をしみじみ思い出すことがあるそうだ。
「母が豚足の煮込みを作った時はいつも、家族で三日間も食べ続け、ご飯もいっぱい食べました」。彼女はレシピを研究して、母の味を再現した。

彼女の母の豚足煮込みの香りのポイントは、八角と桂皮にあるので、鐘さんは幾度もひよこ豆の煮込みを試みた。ひよこ豆は植物性たんぱく質が豊富だ。煮込んだ後も八角と桂皮の味を封じ込めて、美味しそうでまろやかな香りを放った。記憶の中にある、母が作った豚足の煮込みと同じようにできた。

彼女がレシピの研究をするようになったのは、「ふるさとの味」のみならず、「体の健康」を考えてのことである。彼女は、自分が意識的に菜食し、口にする食べ物について理解しようと思った。日曜日は自宅で成長クラスの新住民の友人たちと集う。鐘さんは、快く新メニューのベジタリアンサラダのレシピをシェアした。キュウリとせん切りにしたリンゴにナッツ入りのヴィネグレットソースを添え、油脂分と食物繊維のバランスを考慮した。新しい料理を考案することは、彼女の趣味になっていった。家族や成長クラスの友人たちに、新メニューをシェアする時の喜びが、彼女に一層の達成感を感じてさせた。

インドネシアの家族は、彼女の菜食への堅い意志を見て、菜食を心に留めるようになった。インドネシアでは、菜食の選択肢は少ないが、近年現地で菜食のサテ(Sate)料理が登場した。その名の通り、串焼きの肉類をベジタリアン食材で代用している。家族からの電話で、それを強く勧められた。

鐘さんにとって菜食サテは、ただの加工食品でしかなく、彼女の口にも合わない。それでも、インドネシアの家族が反対から支持に変わり、夫も彼女と共に菜食し始めたのは事実だった。やっと自分の菜食に対する努力が通じて、家族に認められたのである。

七年来、身内に菜食を勧めようと、彼女は知恵を絞り、彼らと智慧で「悪戦苦闘」して来た。「遠くで暮らす」家族に認めてもらうだけでなく、「目の前にいる」夫の気持ちにも心を配らなければならなかった。共に過ごして来た十数年間に、同じテーブルで食事をした回数は数え切れない。夫は妻の食習慣の変化に、始めのうちは受け入れられず、菜食と聞くたびに眉をしかめ、口にしようとはしなかった。幸い鐘さんは、比較的遠回しな方法を使った。毎日、夫の弁当を作る時、決して菜食という言葉を口にしなかった。「家族とのコミュニケーションには工夫が必要です。無理強いしなければ、受け入れられやすくなります」。

家族の支持だけでなく、彼女に意外な収穫があった。電子工場で働いている彼女の同僚が、彼女の変化を見て、思いも寄らず菜食に賛同してくれたのだ。「以前は私が会社で自分の弁当を開けても、誰も関心を寄せてくれませんでした。しかし、菜食にしてからは、新メニューを考案するようになったので、毎日お弁当を開けると、ひよこ豆の煮込み、青野菜、パプリカ、にんじん、じゃがいもテンペなど彩り豊かなのを見て、みんな美味しそうと言うようになりました」。鐘さんの笑顔が光った。同僚たちも積極的に新鮮な野菜や果物を提供してくれるようになったので、彼女が料理して、皆で食べた。日が経つにつれ、彼女と同僚たちの交流もますます深まった。

鐘さんは、菜食料理を研究して、楽しくレシピをシェアしては、健康かつ理想的な生活をデザインして周りの人を手助けしている。また、より多くの人が共に意識して菜食し、心身ともに楽しく健康になることを願っている。

(慈済月刊六七〇期より)

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