人文教育|ブッダガヤで静思語を広める

インドは猛烈に暑いが、慈済ボランティアはいつものようにブッダガヤにある十一校の学校を回って、分かりやすい静思語を教えている。それは授業と言うよりも、心から学びたいという教師と生徒の熱意の心に打たれて行っているのである。

六月の下旬、ブッダガヤにはまだ夏休み中の学校もあったが、スジャータ村にある仏法教学寄宿学校には休暇がなかった。それによって、校内の孤児や貧困家庭の子供たちが行き場をなくさずに済むのである。

この学校は、卸売市場の上階にあり、NGO団体から支援を受けて、十のクラスを運営している。十人の教師と二百三十人の生徒がいるが、教室に勉強机とイスはなく、彼らが座る木の板が机でもあり椅子でもあり、さらに夜には寝床にもなる。

室内は余分なスペースがないので、鞄とノートはその板の上に置き、服は壁に掛け、私物は板の下に置いてある鉄の箱に入れていた。蒸し暑い室内は、扇風機と窓の外から吹いてくる風だけが涼しさを運んでくる。ボランティアはグループに分かれて四年生と五年生のクラスを担当した。四年生の静思語は、「多くを実践すれば得るものは多いが、実践が少なければ失うものが多くなる」と言うもので、現地のボランティアがヒンディー語で教え、ボランティアの黄嫊桃(ホワン・スータオ)さんは、側で説明を手伝った。現地ボランティアのディーパク・クマールさんは、五年生にこの言葉を教えた。「心して聞き、見て実践すれば、生涯を通してその恩恵に預かる」。これは前回の言葉をさらに深めたものである。

仏法教学寄宿学校には勉強机もイスもなく、彼らが座っている木の板が机であり椅子でもあり、夜には寝床にもなり、服は壁に掛けている(写真1)。ボランティアは、教え方を工夫して、子供たちに一つ一つの静思語の意味をよりわかりやすく伝えた。(写真2)(撮影・葉晋宏)

クラスの中には、中学生のように見える子供が何人かいた。どうして四年生や五年生クラスにいるのか。それは、彼らが九歳や十歳まで就学の機会がなかったからだ。子供たちは授業に集中し、ボランティアから送られたボールペンとノートで絵を描き、静思語を書き写した。困難な環境は、彼らの学習態度に少しも影響しなかった。各人にはそれぞれの目標があり、大人になったら、人々に身近な警察や軍人、或いは医者、科学者、エンジニアになりたいそうだ。ボランティアは最初、三十分間の人文コースを予定していたが、時間を超えてしまった。教師は不満を言うこともなく、ボランティアもその機会に少しでも多く教え、子供の心にある、善の種を芽吹かせ続けたいと思った。

民営のサナニ学校を慈済ボランティアは定期的に訪れるが、如心(リグジン・アグモ)法師も護持している。三月に初めて静思語の授業を始めた時、ボランティアは教室が二つしかないことを知った。生徒は二百十人いると言うのに、だ。多くの生徒は教室の外に座って授業を受け、強い日差しの下で聞いている子もいた。その後、校長のラムジーさんは政府に近くの公民館を使えるよう申し込んだ。そこは四方に壁のない建物だが、生徒は気にすることもなく学習に集中した。学校自体は二十年以上になるが、屋根の水漏れが深刻なため、ボランティアたちが力を合わせて俢繕し、今年の雨季の前までに学習環境の問題を解決した。

(慈済月刊六八一期より)

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