被災後の新たな人生|全てを失ってから マイカーとマイホームを持てるようになるまで

モザンビーク:二〇一九年サイクロン・イダイ風災の後、世界中の慈済ボランティアは、再建のためにお金と力を出し、現地の善意を啓発した。現在、首都マプトと中部の被災地には総勢八千人以上の現地ボランティアがいる。

メキシコーク:二〇一七年の地震の後、現地ボランティアが大勢出現した。彼らは二〇二三年のオーティス風災の時に災害支援の主力となり、四カ国からのボランティアが力を合わせ、三千八百十四世帯に買い物カードを配付した。

二〇一九年のサイクロン・イダイ風災の後、私は二回モザンビークを訪れた。一番印象に残ったのは、一面黄砂の上に見渡す限り、NGOから援助を受けた様々なテントでいっぱいだったことである。慈済は緊急支援段階の物資の配付を終えた後も現地に留まり、四つの大愛村と二十三の学校の建設を支援した。コロナ禍などで工事は遅れたが、それでも一つひとつ完成して引き渡しに至り、徐々に住民の生活に改善の兆しが見えてきた。

メドゥシラ大愛村に入居したクィジートさんは、大愛村で初めて認証を授かった慈済ボランティアである。彼は以前、低い土地に住んでいたため、サイクロンで全てを無くした。その後、慈済から胡麻の種と農耕道具をもらった後、精出して耕作し、その収穫によって収入が増え、〇・五ヘクタールだった農地が今では三ヘクタールになった。そして、その家では家具を買い揃えたり、裁縫店を開業したり、自転車を買ったりできるようになった。そして今、彼は自宅を「慈済の連絡所」にして、慈善ケアケースの世話をしている。

慈済が支援建設した、モバンビス中学校は今年一月から使用が始まり、水道と電気が通っているため、現地の暗い夜の中で、唯一燈が点っている場所になっている。

一つの場所が慈済と縁を結び始めると、正しい方法と愛があれば、人は誰でも成長し続けることができるのである。

昨年末、認証を受ける為に十一人のボランティアがメキシコから台湾にやって来た。二〇一七年の大地震の時、現地には慈済ボランティアがいなかったが、災害支援チームが訪れて大愛を残して行ったため、今に至るまで発展してきたのである。

同じく昨年の十月下旬、熱帯低気圧が一日のうちにカテゴリー5のハリケーン・オーティスに発達し、メキシコのリゾート地アカプルコ市に大きな被害をもたらし、二十二万戸の家屋が損壊した。慈済の視察チームは、カリタス基金会の協力の下、支援を受けられていなかった、北西側の甚大被災地に入った。山の斜面にあるスラム地区は道路状況が劣悪で、慈済アメリカボランティアの葛濟覚(ゴ・ヂジュェ)さんと現地ボランティアが手と足を併用してやっと辿り付けるような状態で到着した。負傷した住民が手当を受けられなかったり、家屋が土砂に埋もれたりした様子を見て、支援の手を差し伸べることを決めた。

メドゥシラ大愛村に住むクィジートさん(右)は慈済が配った種を植え、その収穫で生活が改善した。今では自転車も買えるようになり、その村で初めて認証を授かった現地ボランティアとなった。(撮影・ダリオ ニャカリ)

災害状況の視察、支援の決定、パートナーの選定から、一月初めの買い物カードの配付まで、その間にどんなことがあったのだろうか?

一部のメキシコ人ボランティアは丁度、台湾に居たため、メキシコシティーに居たボランティアも被災地とは四百キロ以上離れていたが、現地スタッフのロドリゴさんは先頭に立ってチームをまとめ、被災地の神父とボランティアが協力し合って、僅か一カ月で三千八百世帯余りの名簿を作成し、ダブル・チェックまで済ませた。

あの劣悪な条件の下、全世帯を実地訪問したことは、奇跡に近い。「二〇一七年の地震の後、慈済ボランティアがそうやって支援してくれたのを見て、最も必要としている人を支援しないといけないと思いました」とメキシコのボランティアが言った。

貧しいモザンビークであろうと、地震被害を受けたメキシコであろうと、慈済ボランティアがいなかったところに現地ボランティアが育ち、独自で任務を遂行し、もっと多くの任務を請負えるようになったのである。百千粒の種も一つから生れ、時間が一切を成就させてくれるのだ。

(慈済月刊六八九期より)

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