愛は双方向の交流

高校生の林洛頡さん(中)が支援に参加。(撮影・李彦緰)

住民は泥水の中で嘆いていたのではなく、道具を持って一緒に清掃していた上に、残り少ない飲料水を遠くから来たボランティアに分け与えた。災害支援とは双方向の力だと感じた。住民の気丈さが現場の雰囲気を支え、私たちが継続して奉仕する原動力となった。

実を言うと、自分が被災地の泥の中でシャベルを振るうとは、想像もしていなかった。私は、休日は大体家で過ごしている。机、椅子、エアコン、スマホのある場所、それが最も馴染みのある生活空間である。体力はそこそこだが、「炎天下で長時間作業できるか」と聞かれたら程遠いものだ。こういう調子なので、家庭教師から光復郷で奉仕することを聞いた時、「自分には無理だよ」という思いが頭をよぎった。

しかし、運命はいつも私たち自身で選択できるとは限らない。その日は、いつものように家で睡眠を補い、読書するつもりだったが、突然友人からメッセージが届き、一緒に光復郷に行かないかと誘われた。まるで週末の散歩に行くような軽い口調だった。

私は暫くあっけにとられ、言い訳を探して断るつもりだった。しかし、メッセージに返信しようとした瞬間、突然言われのない衝動に駆られた。善の気持ちが沸き起こったのか、それとも友人に笑われたくないだけだったのか、私は思わず「いいよ」と返事してしまったのだ。そうして、不安と訳の分からない熱意が入り混じった気持ちで、光復郷に向かう列車に乗った。

被災地に入ると、映像からは決して真の被害の程度が伝わらないことを、私は思い知った。道の両側の家は、破れた紙切れのように壁が壊れ、家具が散乱し、空気には泥水と湿気が入り交じった臭いが充満していた。それは「震撼」と言う二文字では言い表せないほど、心に重くのしかかった。その時、自分がここに来たのは、単に「手伝う」ためだけではなく、現場に立ちあうために来たように感じた。

作業は楽ではなかった。数十分も経たないうちに両腕の筋肉が痛み出して力が入らなくなり、靴が何度も泥から抜けなくなって、一歩進むのも大変だった。周りのボランティアと比べると、私は不器用で動きが鈍かった。でも不思議なことに、誰も眉をしかめたり、嫌悪感を表したりすることはなかった。黙って重い作業を引き受ける人もいれば、体力を消耗しない方法を教えてくれる人もいた。無駄な会話は一切なかったが、まるで以前から同じチームだったように、暗黙の了解があった。

さらに感銘を受けたのは、地元住民の姿だった。自分たちの家が全壊したにもかかわらず、彼らは瓦礫の中に座り込んで嘆き悲しむどころか、道具を手にして、ボランティアと一緒に清掃に取り組んでいた。彼らの顔には、疲労は見られたものの、芯の強さを見て取れた。

泥を掬いながら、足元に気を付けるよう人々に注意を促していた人もいれば、残り少ない飲料水を遠くから来たボランティアに分け与える人もいた。その時私は、災害支援は単に私たちが「彼らを支援する」だけでなく、双方向の交流であることを感じた。そのような住民たちの気丈さが現場の雰囲気を支え、遠くから駆けつけた私たちにとっても、奉仕し続ける原動力となったのである。

最後に泥だらけの手袋を外した時、私はふいに、今回の旅で変ったのは、光復郷の土地だけではなく、私というごく普通の男子だったことに気づいた。こっそりとではあるが、変化があった。頑丈な体も特別な技術も持っていないが、一歩踏み出す決意さえあれば、無数の見知らぬ人たちと一緒に、「団結」という力を出すことができるのだ。

家に帰った日は、ずっと考えていた。もしかしたら、真の力とは、どれだけ強いかではなく、「自分」を同じ土地に置く意志があるかどうかだけなのかもしれない。

十八歳で参加した映画のようなワンシーン

口述/林展毅(明倫高生)
整理/王孟加(慈済ボランティア)

心では準備をしていたものの、光復駅から外に出た時はショックを受けた。一階部分がほぼ全壊した家を目の当たりにし、まるで映画のワンシーンを見ているかのようだった。ボランティアたちは台湾全土から集まった人で、お互いに面識がないのに、暗黙の了解の下で仕事を分担していた。また、多くの人が食料や飲み物を寄付し、医療サービスを提供してくれたお陰で、私たちは安心して支援活動を行うことができた。

私は子供の頃からスポーツをしていたので、体力には多少自信があったが、この時の泥の粘り気は見慣れているものとは違っていて、よく靴が泥にはまり、抜け出すのにとても苦労した。出発する前、勉強に影響するのではないかと心配して躊躇っていたが、十八歳という体力が絶好調な時に、光復郷の復旧のため、力を尽くそうと決めた。

(慈済月刊七〇八期より)

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