元々料理が好きではなかったが、菜食するようになってから調理を学び始めた。色とりどりの野菜は、私に美的感覚による創作の道を切り開いてくれた。
子供が学校に持っていくキャラ弁は、いつもクラスで注目を集めた。穀物と野菜と果物は、綺麗で爽やかで、もっと大事なのは、これ以上、私のために命を落として食べ物になる動物がいないという点である。
小さい頃、私はルーローファンを食べるのが好きだった。誰も私にルーローはどのように作られるのか教えてくれなかったし、細かく砕いた肉そぼろはご飯と混ぜると、素早く喉を通った。野菜をまだうまく咀嚼することができなかった頃の私は、小さな歯で長い野菜の葉を噛み切ることができず、時折、それを喉に詰まらせてしまい、飲み込むことも吐き出すこともできなかったため、顏が真っ赤になるほどむせた。また、私は魚を食べるのが好きで、おもちゃが少なかった時代、いつも家族に、魚の目玉を残してくれるよう頼み、ビー玉として遊んでいた。
中学の頃、夜の自習の前にクラスメートがルーウェイ(台湾風煮込み)を買ってきて一緒に食べた。私は細長く切られた豚の耳を指でつまんで口に入れ、噛みながら自分の耳を触ったことがある。その軟骨の触感は、上唇と歯の間の軟骨と何の違いもなかった。それが初めて肉食をしている自分を残酷だと思った時だった。
大きくなってから、私は生のままの料理、或いは、丸ごとの蟹や伊勢海老、魚は決して食べなくなった。動物が死んだ姿は見るのが堪えなかったのだ。それでも自分の心をごまかして、「見なければいい」と思っていた。
外国の或るドッキリ番組で、番組制作部門が売り場でブースを設け、客に「作り立て」ソーセージの試食を提供し、客が購入を希望したら、オーナーは生きた子豚を抱き上げ、仕掛けのある箱に入れ、箱の横のハンドルを回すと、反対側の穴からソーセージが出て来る、という具合だった。客からは、まるで子豚が箱の中で、生きたままミンチにされてソーセージが作られているように見えた。反応は皆、目を大きく見開いて恐怖に満ちていた。気分が悪くて吐き気を催す人もいれば、オーナーに子豚を箱に入れるのを止めようとする人もいた。
人は誰でも本来慈悲心を持っている。この実験では、誰もが生きている動物が命を失うのは見たくないが、人は皆血腥い殺生の場面さえ見ず、死ぬ前の悲鳴さえ聞こえなければ、動物の命を犠牲にして食欲を満たし続けるのである。
たとえ私が小さな水滴だとしても
私は菜食すると決めたのは、十四年前の東日本大震災の時だった。ニュースで津波が町を襲い、海面が燃え上がる映像を見て、私はこの、まるで世界の終末を描いた映画のような災害が現実だとは信じられなかった。被害の映像が次々と配信されるにつれ、私の心もどんどん重くなっていった。
「母なる地球が病気になった!」。私は被災者の涙と取り乱す様子に同情を禁じ得なかった。また、地球のために何ができるだろうかと、心の中で考えていた。当時の私は、大愛テレビ番組『心の講座』に啓発されていて、牧畜業から排出される二酸化炭素が環境に悪影響を及ぼしていることを知り、陸上に生息する動物を食べないことにした。東日本大震災後、福島の原子力発電所から放射能に汚染された水が海に流れ出たことを知って、環境保護と健康、更に地球を大切にするために、私は毅然と魚介類を食べないことにし、その日から菜食主義者になった。
菜食天国と言える台湾に住んでいる私たちは、自分がなぜ菜食するのか分かっていれば、食べ物を選ぶのは全く難しくない。元々料理が好きでなかった私が、各種の調理方法を学び始めた。色とりどりの野菜も私に美的感覚による創作の道を切り開いてくれた。子供が学校に持っていくキャラ弁は、常にクラスで注目を集め、褒め称えられ、菜食を食べたいというまでになった。家族も、家では私と一緒に菜食をするようになったことで、明らかに体調の変化を感じていたそうだ。健康診断の報告書でも、体重、血圧、コレステロールの数値が異常値を示す赤字から正常値を示す青字に変わっていたのである。
世界の人口は八十一億人を数え、每日食事を提供するために、二億一千万匹超の家畜が食肉処理されている。しかも、この数字には水中生物は含まれていない。統計によると、一人一日三食とも菜食した場合、少なくとも二キログラムの二酸化炭素排出量を削減することができる。菜食を初めて五千日余りの私一人で、ほぼ一万二千キログラムの二酸化炭素排出量を削減したことになり、それは、八十本のクスノキの炭素貯蔵量に相当する。
三月十一日は震災の日だが、私にとっては飲食習慣に目覚めた日でもある。地球のために起こす小さな行動も軽く見てはいけないと、この日が思い出させてくれるからだ。私の飲食習慣の選択が、この地球環境にとってはただの小さな一滴の水だとしても、私はその小さな水滴で、傷ついた大地を潤したいのだ。
人間も動物も血が通っている
食習慣は変えることができる。今すぐ完全に菜食することができなくても、野菜を増やして、肉を減らすのもいい。体にとっても、環境にとっても、いいことだらけである。一食の菜食は一つの善念である。地球を愛するなら、食卓から始めよう。
菜食主義者になってから、最大の変化は「食べ物」を違う視点で見るようになったことだ。私が口の中に入れる食べ物は太陽、空気、水で灌漑された野菜や果物を選び、健康的で爽やかで体に負担がかからないものであり、もう、命が終わる前の悲しみと重い魂が付着した、調味料を加えて調理された血まみれの肉ではないのだ。目を閉じると、彼らの生前の飛び跳ねる様子さえ想像できる。懺悔と慈悲が心の中で交わりながら成長している。
(慈済月刊七〇二期より)


