(絵・陳九熹)
菩薩になれる自分に期待して、人の為に道を敷きましょう菩薩はもし、道を敷かなければ、ただの行きずりの人に過ぎません。
自分がしっかりこの道を歩むだけでなく、後から来る人の為にも、平穏に歩める道を残さなければならないのです。
これこそが私たちの生命の価値です。
寒い冬が過ぎ去り、温暖な春がやってきて、大地に春が巡ってくることで、万物は栄えるのです。私たちも同じく、仏に学ぶ心が新春にめぐり逢うように、法を心の中に存分に吸収すれば、繁栄して力強くなれます。毎日が新年であるかのように、いつも互いに祝福し、感謝し合うのが、人と接する最も美しい光景です。
旧正月前、台湾の数十カ所の慈済道場で、「年越し」の食事会が開かれ、心をこめてケア世帯を招待しました。慈済が一九六九年に普明寺で初めて冬季配付を行って以来、毎年、年越しの食事会で、社会の暗がりや家にいて寂しく一人暮らしをしているお年寄りも、この場所に来れば、人々と顔を合わせることができるのです。慈済は大家族なのですから。
世の衆生を自分の家族と見なす愛は、とても誠意のあるものです。私たちが毎日早朝に「大殿」(本殿)で〈炉香讃〉を唱えているように、「心のこもった誠意があれば、諸仏は姿を現わす」のです。その実、諸仏や菩薩の姿が私たちには見えなくても、感じ取ることは出来ます。なぜなら自分が誠実なのは、仏様がお分かりになっていると信じており、またこの誠意が証明されたからこそ、仏様が私の心の中にその姿を表すのです。誰もがこのような心を持っていれば、仏様や菩薩はいつでも私たちの心にあります。仏心や菩薩心があれば、自然とあらゆる衆生に対して誠意で接するようになります。
慈済人は、この世の貧困や病、一人暮らしのお年寄り、障害者を見れば、直ぐに関心を寄せて寄り添い、連絡が取れれば情は繋がり、良縁が結ばれます。年越しや節句に家々で楽しく団欒する時、彼らは困難を乗り越えて来たことを忘れていません。そこでボランティアは、年越しの美味しい料理を用意して「囲炉(食卓を囲む)」をしたり、各テーブルを回って話をしたり、料理を取ってあげたりすることで、彼らに美味しい料理を楽しむだけでなく、心遣いも感じ取ってもらうのです。招待された人たちは喜びに満ちたことでしょう。
「囲炉」の時、多くのケア世帯が「竹筒貯金箱」を持って来て、毎月コツコツ貯めた硬貨をチャラチャラ、カラカラと音をたてながら、大きなかめに空けます。これが竹筒歳月であり、軽々しく見てはいけません。一滴の水でも河となって乾いた大地を潤します。僅かでも集まれば、無数の救済ができるのです。
旧正月の間、多くの国々から慈済人が私に会いに帰って来ます。静思精舎は世界中の慈済人の家なのです。皆さんは普段は人間(じんかん)で精進していますが、精進の道場と同時に仏法の大家庭に帰って来るのです。除夜の食事会は二百卓以上になり、どのテーブルに行っても、喜びに溢れた挨拶の声が聞こえてきます。
慈済人は毎日のように人と良縁を結ぶと共に、常に自分への祝福もしなければいけません。「幸いにも私は慈済の大家庭にいるので、師父は私を『菩薩』と呼んでくれます。菩薩にならなければ……」と誰かが言いました。慈済は間もなく六十年になります。世界中の慈済人のサポートに感謝し、心と愛で道を切り開いては敷いて来ました。菩薩は道を切り開かなければ、ただの通りすがりの人でしかありません。私たちの役目はその道をしっかり歩むだけでなく、後の人に軽快で平穏に歩ける大道を残すようにすることであり、これが生命の価値なのです。
世の中には欠陥のある人生を送っている人がとても多いのです。様々な人間(じんかん)の苦を目にしなければ、ぼんやりした日々を送ってしまいます。世の苦難の声に耳を傾ければ、自分の幸福を大切にするようになります。福があって、因縁によって苦を目にしたのなら、使命感と責任感で以て愛の力を啓発すべきです。どこかの国で苦難や災難が起これば、そこの慈済人が行動を起こします。災害の面積が大きい時は他国から動員することもあります。或いは被災者の自力救済を促し、「仕事を以て支援に代える」方式で、自分たちの町や身寄りのないお年寄りをケアしてもらうのです。災害支援は日常生活にも関心を寄せなければなりません。一時的な支援だけに留まらず、三カ月或いは半年掛けなければ、元の生活に戻れないと評価した場合は、中期的な支援をします。また家庭に独居のお年寄りや障害者、病人しかいなければ、長期ケアの対象にし、しいては人生の最後に至るまで関心を寄せなければなりません。ですから私は慈済人の大愛に感謝しています。菩薩のいる所には苦難の人々に幸福が訪れるのです。
一日は八万六千四百秒と聴くと、多いように思いますが、時計のチクタクだけを聞いていると時はすぐに過ぎ去ってしまいます。人生もまた、この一秒の間に飛び去り、自覚を持たなければ、知らない間に過ぎて行き、気にしていないと、命もまた時と共に飛び去ってしまいます。時はどんなに把握しても、極微細なミリ秒も過ぎて行きます。時を利用して、この一秒を価値のあるものに使うのです。
感慨深げに時は過ぎ去りますが、「命もまたそれと共に終わる」のです。そして、過去の歴史は積み上がりますが、それらの出来事があったことに感謝し、この一生で実践してきた正しいことを忘れてはいけません。体力は歳を追って衰えていきますが、精進に努め、自分の気力と勇気を忘れずにいたいものです。なぜなら修行の目的は衆生を済度することであり、それは縁がないとできません。この一生で、もっと多く福縁を結んでこそ、来世で修行する時、衆生との縁に恵まれるのです。修行が長ければ長い程、済度出来る人が多くなります。人間(じんかん)の至る所は菩薩道に通じ、一本一本の菩薩道は仏道に通じるのです。どうぞ絶えず心して励んでください。
(慈済月刊六八八期より)