ブッダガヤの一日

トゥクトゥク(三輪タクシー)は尼連禅河の河畔の村で停まり、ボランティアは牛を避けながら村に入った。

ブッダガヤでの日々は、千里の道の第一歩でもある。

スジャータ村で長期間、訪問ケアを続けるボランティアに、村の女性たちが親しげに挨拶した。(撮影・葉晋宏)

朝の六時、太陽が東から昇り始めた頃、ブッダ成道の聖地を示す大菩提寺から徒歩で二十分の距離にあり、畑の側に建てられた慈済ブッダガヤ連絡所は、徐々に朝日に照らされ始めた。七時を回る頃、連絡所や付近のホテルに寝泊まりしているボランティアが一人ひとりと連絡所の一階に集まり、現地の人も様々な方向からやってきた。「グッドモーニング!」という共通言語で挨拶し、一日のスケジュールが始まる。

朝の打ち合わせで、皆は当日のスケジュールと重要任務の分担を確認する。現地ボランティアはヒンディー語を話し、シンガポールとマレーシア、台湾のボランティアは中国語を話すが、この時は皆英語を話す。そうしていると、連絡所の入り口にシロンガ村から女性たちを乗せたトゥクトゥクが到着した。職業訓練の裁縫教室が、八時から始まるからだ。少し遅れて、第二組のメンバーがスジャータ村からやって来た。どちらのクラスも、ピンキー先生が裁縫を担当し、ボランティアの欽図(チントゥ)さんが、慈済手語を教えている。

それが終わると、二十人ほどのボランティアがチームに分かれてトゥクトゥクに乗り、ブッダガヤ周辺の貧しい村や学校に向かう。冬に入ると寒暖差が大きくなり、早朝は摂氏七〜八度だが、昼間は急に摂氏二十度以上になる。ボランティアは馴染めるよう努力しながら、人助けをして、貧しい村の先生や生徒に温もりをもたらしている。

慈済ブッタガヤ連絡所の外では、トゥクトゥク三輪車が出発の準備をしていた。現地ボランティアの道案内で、慈済ボランティアと物資を乗せ、村内を訪問ケアに向かう。(撮影・林家如)

善念と善行は温める必要がある

インドでは数千年前からカースト制度が依然として続いており、住民の生活に多大な影響を及ぼしている。今日では、人口が十四億を超え、最下層の貧しい人々は二・三憶人に達した。国連の統計によると、インドは世界で最も貧困者が多い国である。

二〇二三年三月から、マレーシアとシンガポールの慈済ボランティアは、数回に分かれてブッダガヤに滞在し、ブッダ生誕の地であるネパール・ルンビニで培った経験をブッダガヤに拡大しながら慈善、医療、教育、人文等の志業を展開してきた。

例えば慈善チームは、訪問ケアと貧困救済以外に、連絡所で裁縫教室や英語教室、パソコン教室などの職業訓練コースを開設し、住民が手に職をつけられるようアシストしている。年末年始、ブッダガヤで奉仕していた医療チーム章愛玉(ヅァン・アイユー)看護師と現地ボランティアのインドラジートさんは、ケア世帯の通院の付き添いや在宅でのガーゼ交換、訪問ケアを含む支援を通じて住民の健康を見守り、断酒のサポート等を行ってきた。

教育チームは、現地ボランティアと協力して十カ所の学校をケアしている。毎日学校に行って静思語をシェアすると共に、各学校で親子運動会を開催し、先生と親と子の間の絆が深まるよう支援している。人文真善美(記録)チームは、台湾からのボランティアが交代で担当している。現地ボランティアのアマールさんと協力して、写真や文章、映像でブッダガヤの現況とボランティアの軌跡及び美善のストーリー等を記録している。

現地ボランティアは、各チームの中で必要不可欠な役割を担っている。元々彼らは現地コミュニティの一員であり、海外ボランティアに周りの環境と住民の生活状況に関する情報を提供してくれるので、慈済の模索期間が短くてすむ。慈済が志業を推進する良きサポーターである。

海外ボランティアは、現地で長期滞在するにしろ、引き継いで任務を担うにしろ、全て「弘法利生」という使命の下に、證厳法師の理念を伝承し、「ボランティアの現地化」という目標を進めている。慈善救済と医療ケアは長期的な任務であるため、外国人の入国日数の制限やボランティア各人の家業や事業の制約がある中で、如何にして支援を続け、「九仞の功を一簣に虧く」ことにならないようにするか?二十歳の女性テタリさんの話はとても良い例である。

二〇二三年五月、ボランティアはラッティビガ村で彼女を発見した。幼少の頃から足の病気で足首から下が切断されていたが、症状は未だに改善されてない上に、家が貧しいために治療を続けることができず、腫れ上がった部分の痛みに長年苛まれてきた。ボランティアは彼女に治療を続けさせ、切断手術費用から義足をつけるまで、全額を負担すると約束した。

彼女は手術後に帰宅したが、当地の医療は遅れており、加えてテタリさんの居住環境が悪かったこともあり、傷口の回復は順調ではなかった。医療チームは、毎日彼女のために自宅に通ってガーゼ交換をすることにした。林金燕(リン・ジンイェン)さんは、数カ月間彼女に付き添ったが、途中で用事のためにシンガポールに一時帰国しなければならなかったので、章さんの協力を仰ぐことにし、十一月二十日特別にシンガポールから来てもらって、ケアを引き継いだ。このガーゼ交換は、一カ月余り続いた。章さんの荷物は三十キロほどあったが、大部分はテタリさんのために準備した医療用消毒ガーゼや薬用シート、消毒薬及び外科器具等だった。

傷口の膿は初期の淡い青色から徐々に淡い黄色に変わり、傷口の腐肉を除去した後は、日毎に癒合が進んでいった。章さんは十二月二十九日にシンガポールへ帰国する時、午前中に再度取り換えたが、引き継いだ時は血肉が混ざって拳のように大きかった傷口が、その時は小さいガーゼで覆うことができるほどになっていた。彼女は、テタリさんがこれ以上苦しむことがなくなったことを、とても嬉しく感じた。

章さんは時間と自分の専門を投入したばかりでなく、病に苦しむ人を見るに忍びない心を持っている人だとテタリさんと彼女の両親も深く感じ取った。離れる前に取り換えた時、いつもはドアの外で離れて見ている謹厳実直な父親までが、進んで記念撮影に加わった。

栄養補給食品配付プロジェクト
  • 慈済人医会のボランティアが、村内で健康診断を行う。ボディマス指数(BMI)が低過ぎて栄養失調になっている村民がいると、豆を配付し、仕入先から新鮮な搾りたての牛乳を提供するようにした。ボランティアは毎月、再調査と体重測定を行っている。

  • ボランティアは、ヒヨコ豆、木豆、赤レンズ豆、緑豆、黄エンドウ豆等の配付と同時に計量カップも提供することで、村人が毎日十分な量を食べてもらえるようにした。通常は四〜六カ月で効果が現れ、健康が促進され、疾病を防げるようになる。
慈済ボランティアに憧れて

目下の慈善救済と医療ケアの重点地区は、シロンガ村、スジャータ村、ガンガビガ村、タポヴァーナ村、ゴーガリア村、ハティヤール及びブッダガヤ等である。

前正覚山(ぜんしょうがくざん)は、大菩提寺から東北へ行くこと約七キロ の所に位置し、山中の石窟はブッダが六年間、苦行をした場所で、今日では重要な観光スポットになっている。前正覚山の麓の村落がタポヴァーナ村で、多くの村民が聖地の巡礼に来る観光客から物乞いをして生計を立てている。

二〇二三年十二月十四日、章さんとインドラジートさんら一行五人は、村民の栄養失調を補うために、たんぱく質を豊富に含んだ豆の配付を行った。ボランティアが乗ったトゥクトゥクが村の入り口に止まると、子供たちが続々と押し寄せ、簡単な英語を使い、物おじすることなく、手を伸ばして金銭をねだった。ボランティアは幾度となくタポヴァーナ村に入って、ケア世帯に訪問ケアや健康診断、配付等を行っており、そのような光景はすでに日常茶飯事である。

章さんによると、配付対象の大半は家庭内で世話をしている人で、往々にして世話している人が栄養失調なので、対象者も栄養失調になっていることを表している。その日は七世帯で配付と体重測定をし、二時間半を費やした。ボランティアを乗せてトゥクトゥクを運転していた運転手のスレンドラさんは、ボランティアのインドラジートさんの長兄で、理性的でない村民が物資をもらっていないと文句を言ってボランティアを怒鳴りつけても、ボランティアたちはただ笑顔でお辞儀して通り過ぎたので、お兄さんは怒りがこみ上げ、相手に対して言い返せずにはいられなかった。

インドラジートさんはそれを見て、自分のボランティアベストを脱ぎ、お兄さんに着せ、そしてお兄さんに、その後の豆の配付活動への参加をお願いした。ボランティアは、なぜそのようなことをするのか?と尋ねると、お兄さんに変わってほしいのだと答えた。自分も慈済人であることを感じてもらい、心を落ち着かせて、理性的ではないことに遭遇した時も、対処できるようになってほしいのだった。

お兄さんは弟の誠意を感じた。そして、「弟は慈済ボランティアと一緒に活動を終えた後、小声で優しく話すようになり、気性も良くなりました」と言った。彼は弟のことを嬉しく思うと共に、慈済ボランティアの果たす役割に憧れる気持ちが芽生えた。

善の効果は、見返りを求めない奉仕の足跡の中で、一輪一輪と蓮の花が咲くように現れた。チームがガンガビガ村に着くと、ふいに一人の村人が新鮮なグアバを抱えて現れ、ボランティアを労った。インドラジートさんはその人を覚えていた。彼はテタリさんの父親、シュカールさんその人だった。

いつも日暮れる頃にボランティアたちは各地から連絡所に戻り、その途中で、よく尼連禅河に架かっている橋を通る。二千五百年余り前、苦行を止め、尼連禅河で身を清め、スジャータから羊の乳粥の供養を受けてから、徐々に川を渡る力が戻り、最終的に菩提樹の下で悟りを開いた。

ブッダガヤは仏教八大聖地の中でも重要な意味を有しているが、今でもインドで最も貧しい地域の一つである。当時ブッダが悟りを開いた場所は、世界に名を馳せた大菩提寺として知られ、天気が良ければ、川を渡る時に夕日と大菩提寺が出会う美しい景色を堪能することができる。束の間の興奮の中、正信の仏教がここで興盛し、長く続いてほしいとそっと心の中で祈った。

暮色が平野を覆った。冬の夜は長いが、心の奥に灯った灯りが一つ一つ伝わり、ブッダの故郷へと広がって行くようだった。

(慈済月刊六八七期より)

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