ルンビニからブッダガヤまで|路地から路地へ─街を歩いて愛を繋げる

二年前から、シンガポールとマレーシアのボランティアは、ネパールのルンビニに滞在し、ブッダ生誕の地で慈善活動を始めた。今年初め、ブッダが成道した場所であるインド・ブッダガヤで歳末祝福会を三回行い、二千三百人余りに仏法に親しんでもらった。慈済は五十八年目に入り、ブッダの故郷を無から有に変え、現地ボランティアが担ってくれたことで、一同は大愛を路地裏にまで送り込むことができた。

インド・ブッダガヤのボランティアが脳梗塞を患ったサムフルさん(中央)を訪ねた。現地ボランティアのスダさん(右一)はシンガポールとマレーシアのボランティアに同行してケア世帯とどのように接したらよいかを学んだ。(撮影・林家如)

ブッダガヤのラッティビガ村は住宅が密集している。2023年9月に医療チームのボランティアが何度も村を訪れて、村民に健康診断を行った。(撮影・鄧亦絢)

インド・ブッダガヤのもう一つの風景

文・魏玉縣(台中慈済ボランティア)
訳・心嫈

インドのブッダガヤは、二千五百年余り前に仏陀が成道した場所である。

今は仏教四大聖地の一つとなり、世界各地から旅行者が訪れている。この半年間、シンガポールとマレーシアの慈済ボランティアは、巡礼や修行にも来るが、更に、そこで人々が心の安らぎを得られるように、「平和で幸福な場所」を創りたいと志を立てた。

早朝、インド・ブッダガヤ慈済連絡所の外に二台のトゥクトゥクが停まっていた。車の屋根には黒板や扇風機、サッカーボール、食器、ノートがいっぱい積まれ、中には十人の慈済ボランティアが乗っており、ここから四、五十分の距離にある二つの学校に出発するところだった。その横には、地元ボランティアのアマルさんがバイクで付き添った。後ろの席にはマレーシアから来た、副校長を退職した姚雅美さんが乗っていた。

インドの田舎では全般的に清潔な水が不足している。今年五月、慈済ボランティアがブッダガヤの多くの学校を訪れて水質調査を行ったところ、ガート公立学校は、水だけでなく、各種学用品も不足していたので、今回九月二十日に配付活動が行われた。

学校は、トゥクトゥクの運転手でさえ途中で道を聞かなければならないほど辺鄙な村にあった。そこは二十年もの間水道が通っておらず、近くに住んでいる女性教師が毎日バケツ二杯の水を学校まで運び、子供たちに手を洗わせていた。ボランティアは、政府が近くに敷いた水道管から学校の貯水槽までパイプを繋ぎ、そこから調理場、洗面台、トイレにパイプラインを敷設した。

水のある日は長く続かなかった。というのも、農民が水道管の途中から水を灌漑用に引いてしまったのだ。学校側は、なす術がなかった。毎週学校で静思語を教えに来る姚さんは、校長先生に「何がなんでも政府に水不足の問題を解決してもらってください」と懇願した。

一年生の教室に来ると、四十五人の子供が裸電球一つと二つの窓だけを頼りに明かりをとっていた。全員が布を敷いた床に座り、ある子供の側には更に小さい子が寄り添っていた。彼らの弟や妹だろうと容易に推測できる。インドの高温は有名だが、各教室にはシーリングファンが一台しかない。また、食事の皿も足りないので、子供たちは交代で食事をしなければならない。子供が放課後に一番したいのはサッカーだが、サッカーボールは全て破れてしまっていた……ボランティアは何とかしてその状況を改善した。校長のシブ‧プジャンさんは、「慈済にとても感謝しています。我が校が今直面している問題は全て解決してくれました」と笑顔で言った。

政府は子供たちの制服代を各家庭の銀行口座に振り込むようにしているが、やりくりができず、銀行に口座を開くことが難しい親もいる。それ故、子供たちは私服で登校しており、校長先生は、何か方法を考えてみると言った。様子を見るしかなく、姚さんはため息をついて、「良い結果が出ることを願っています」と言った。

ボランティアたちは再びゴンガリヤ学校を訪れたが、サルミラ‧クマリ校長が最も困っていたのが、子供たちの欠席が深刻化していることだった。学校生徒百八十人中、毎日登校しているのは百二十人ほどしかいない。というのも、学校には教室が二つしかなく、また、親が農作業や家事の手伝いのために、子供を家に引き留めているからだ。姚さんは、教師が学校に行かなくても良い休日を利用して、皆で一緒に欠席している子供たちを訪ねるつもりだ、と言った。

校長先生は難色を示したが、姚さんは「その気さえあれば、できますよ」と励ました。姚さんは、台湾とマレーシアのボランティアのことを例に挙げた。彼らが遠路はるばるインドに来たのは、子供たちの教育水準の向上を手助けするためなのである。

姚さんは、実は、既に心に決めていると言った。たとえ先生たちが参加したがらず、一人や二人しか同行しなくても、彼女は実行に移すつもりだった。「上人が『中退ゼロ』、『欠席ゼロ』の達成を望んでいらっしゃるからです」。

校庭を一周すると、ブッダガヤの教育、公衆衛生、厳しい生活などの現実を知ることができる。慈済基金会は二〇二二年十一月、インドでNPOとして登録し、二〇二三年九月十三日にブッダガヤに慈済連絡所を開設した。貧しい住民に助けを求められる場所を提供し、地元ボランティアを養成することが、これからの努力目標である。

仏陀は弟子たちに悟りへの道を教えたが、證厳法師は仏陀の故郷に恩返ししたいと常々願って来た。歴史を振り返ると、シッダールタ王子は修行のために宮殿を出て、苦行林で六年間苦行をしたが、そこを離れようとした時、体力が尽きそうになり、羊飼いのスジャータにヤギの乳を提供してもらったことで体力が回復し、尼連禅河を渡ることができた。そして、菩提樹の下で悟りを開いたのである。後に、サルナートで法を弘め、クシナーラーで入滅した。即ちネパールとインドの双方とも仏陀の故郷なのである。

ここ数年はコロナ禍の影響が大きく、昨年四月にネパールの国境が開かれるまで出向くことができなかったが、その後直ちに仏陀生誕の地であるネパールのルンビニに向かった。一年間の経験から、特に、静思語教育に対する反響がとても良いことを知り、ボランティアチームは、それをインドのブッダガヤ・シロンガ村にも広めた。そして、スジャータ村でブッダガヤ初めての慈善ケア世帯案件が成立した。その後、住民の医療ニーズに応じて、六月からコミュニティーで健康診断を行った。

現地に連絡所を設置してからというもの、シンガポールとマレーシアのボランティアは、もうホテルに泊まらなくてもよくなった。そこは世界の慈済人の家であるだけでなく、世界中の人が巡礼や禅の修行のためにブッダガヤを訪れた時、慈済連絡所がそこにあることで、あらゆる人にとっての「平和と幸福の場所」となり、心の安らぎを得る場所でもあることを知ってもらいたい。

(慈済月刊六八四期より)

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