主人は毎週末、私を連れて車でコミュニティを巡り、街角の小さい図書館(図書ボックス)を見つけては、慈済の書籍を置いている。
それから、ルートを見つけて、図書館や古本屋にも寄贈している。私たちが住んでいる町には、中華系の人は多くなく、ボランティアの人数も数えるほどだ。
しかし、「努力した分だけ、得るものがある」。ひたすら努力するまでだ!
今年6月、カナダのウィニペグ・フードバンクと合意し、候宣如さん(左から2人目)とボランティアたちは慈済の書籍を寄付して法縁者と縁を結んだ。
ウィニペグ市は、カナダ中央のマニトバ州にある。気候はかなり極端で、年平均の最高気温と最低温度の差が三十五℃にもなり、夏は暑くて短く、冬は寒くて長いという、カナダで一番寒い都市である。
カナダは移民の人種が多く、信仰も相応に多元的だ。ウィニペグ市の華人は大都市ほど多くはないが、人口の流動がかなり高いため、ボランティアを募集することが一層難しい。その上、過去三年間のコロナ禍の影響で、地域ボランティアはほぼ引き継がれていない。
慈済ウィニペグ連絡所は二〇〇八年に設立され、マレーシアから来た蘇琪龍(スー・チーロン)さんが一人で、慈済のあらゆる事を担ってきた。四年後、蘇さんはケベック州のモントリオール市に引っ越し、その後、中国からきた李晟旭(リー・チェンシュー)さんと劉玲瑋(リュウ・リンウェイ)さん夫婦が引き継いだ。今年五月、李さん一家がアルバータ州のカルガリー市に引っ越したので、六月に、ウィニペグに来て一年の台湾人ボランティア黄添華(ホワン・ティエンホワ)さんが事務の窓口を受け持つようになった。
黄さんの家にある慈済に関する物のうち、二十箱余りに入っている約千六百冊の出版物は、私が取り扱った。どのようにして人と縁を結べばいいかを考えていると、姉の口ぐせである「考え方を変えて、祝福しよう」という言葉を思い出した。
確かに、これら素晴しい書籍を人と分かち合える自分を祝福したいと思った。そして、週末になると必ず、主人が私を連れて車でコミュニティを巡り、街角に約三十册の本しか收容できないような小さい「図書館」を探し求めるようになった。
他の人が本を置くのに影響しないように、私は慈済の書籍を每回五冊だけ置くことにした。英語の本が大半を占める中で、中国語や日本語版の慈済の書籍が偶に出現すると目立つものだ。それから、当地の図書館と古本屋への寄贈も試みた。住民に少しでも慈済の事を知ってもらうチャンスを与えようと思ったのだ。
六月十日、蘇さんは、李さんと黄さんを招いて、オンラインで私に会わせてくれた。私たちはそれぞれ三つの異なる町に住んでいるが、互いに過去の事を分かち合い、慈済の将来の色々な事を話し合った。
蘇さんは、二〇〇九年にウィニペグのボランティアとして、初めて歳末祝福会を催したことを振り返った。当時はそれに適した場所がなく、ボランティアも足りなく、ハード設備やソフトウェアも不足していたが、幸い、台湾から嫁いできた黄美華(ホワン・メイホワ)さんが、自分の家を臨時の会場にと提供してくれた。その後、林麗芬(リン・リーフェン)さんが、長期的に彼女の幼稚園を提供してくれたお陰で、年二回の比較的大規模な活動である、歳末祝福会と灌仏会を行うことができた。
蘇さんが話題を変えて、黄さんに尋ねた。「次はあなたが引き継ぐ番ですが、何か考えはありますか」。
「私は喜んで引き受けますが、宣如師姐と協力してやり遂げます。宣如師姐、聞こえましたか?」と黄さんは突然、私を指名した。
「引き受ける」という言葉は重苦しい。楽しいボランティアになりたいだけで、言い訳を探して辞退したかったが、證厳法師の言葉を思い出した。「異国の空の下で異国の地に生きるのですから、恩返しすることを忘れてはいけません」。すると、答えは自ずと「YES」に変わった。
十四年間、ウィニペグのボランティアは一人ひとり、と引き継がれて来たが、「実践しながら学び、学ぶうちに体得し、体得を経て悟る」ことが精神的な支えとなっている。今でもボランティアの数は少なく、人間(じんかん)菩薩を大募集するのは更に遠い先のことだが、「構いません、全力を尽くした分だけ、得るものがあり、頑張って福田を耕していきましょう!」と黄さんはいつも励ましてくれる。
ウィニペグのボランティアは目の前に広がる福田を歩いていくうちに、行き交う法縁者に出会う。たとえ偶然の出会いでも、或いは、何百、何千マイル離れていても、いつかは静思法脈の中で悦びに溢れた出会いがあるだろう。集まっては去って行ったボランティアはタンポポのように、法師の教えを携え、「仏心師志」と言う四文字の下に、風に載って各地に届けられ、もう一度「慈善」の種子として根付き、辛抱強く芽が出るきっかけを待っている。
(慈済月刊六八二期より)